静岡アジア人協会
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在日のあしあと (1)
 〜 朝鮮人遺骨安置堂に安置された朝鮮人の遺骨 〜
 静岡市清水区北矢部にある火葬場(静岡市清水斎場)の入り口から左に入ると、「朝鮮人遺骨安置堂」が建っている。
 安置堂は、1993年3月、地元の総連や民団のほか、自治体(旧清水市。現在の静岡市清水区)の協力によって建立されたものであり、瓦屋根が広く張り出した朝鮮式の形をしている。
 安置堂には、祖国を離れて日本に来た朝鮮人の遺骨が安置されていた。当時、清水には港湾業、軍需工場、航空隊や高射砲などの軍事基地があり、朝鮮から多くの人々が動員されて労働に従事していた。
 安置堂に奉納されている遺骨は、労働動員されて亡くなった方々のものである。安置されていた遺骨は93柱(氏名があったもの26柱、氏名はあったが判読不明なもの4柱、氏名不詳63柱)であり、その多くは身寄りのわからない無縁仏になっていた。
 45年間にわたり奉納されていた遺骨は、2010年に地元の総連、民団、及び自治体関係者の協力によって韓国に戻った。
以下に「清水市朝鮮人納骨堂」が建立された経緯などを紹介する。

<以前は東海寺に安置されていた>
 清水朝鮮人納骨堂に安置されていた遺骨は、以前は清水市(当時)北矢部にある東海寺で安置されていた。
 東海寺は、34の寺院から委託されて遺骨の安置をしていたが、当時の住職は、将来的に永きにわたって遺骨を安置する場所が必要であると考えていた。

<総連会員が最初の納骨堂を建立>
 1956年5月4日、住職は当時の総連清水支部委員長に安置堂を建立する話を持ちかけ、総連清水支部の一部会員が有志で安置堂建立費用を出資して安置堂(旧安置堂。現在は残っていない)を建立した。
 東海寺に安置されていた遺骨は、総連清水支部によって保管が引き受けられ、建立された納骨堂に奉納されることになった。
 その後、旧安置堂は木造だったため湿気で損傷が目立ち始めたことから、1965年7月、総連清水支部の一部有志が再び出資し、コンクリート造りに建て替えられた。
 在日同胞によって建立と立て替えが行われた旧安置堂は、地域の同胞から大切に管理された。
 なお、建て替えられた旧安置堂は現在も建っているため見ることができる。

<3回目の納骨堂建て替え>
 旧安置堂が建って35年が過ぎた頃、再び建物の経年損傷が目立ち始めた。風雨にさらされたことや湿気によって、扉は腐り、内側の骨壺が割れて、台も朽ちた状態となっていた。
 1991年、総連清水支部の関係者は再び立ち上がった。今回は民団清水支部と合同で、清水市(現在の静岡市清水区)に納骨堂の立て替えを要請した。
 市はこれを受け入れて立替予算1千300万円を計上し、1993年3月、現在の「朝鮮人安置堂」が完成した。
 なお、現在の安置堂は、旧安置堂(2回目に建造されたもの)の建立場所から至近の所に建造された。
 現在の安置堂と無縁仏納骨堂の間から、山の上に旧安置堂を確認することができる。

<合同慰霊祭>
 総連清水支部と民団清水支部は、現在の安置堂が双方の努力によって建立されたことをきっかけに、毎年、朝鮮の旧盆時期である9月に合同で慰霊祭を開催してきた。
 合同慰霊祭を開催する際には案内チラシを配布して同胞の参加を呼びかけた。
また、清水市や一般市民の支援を受けて安置堂の管理を続けてきた。

<遺骨返還への取り組み>
 遺骨を故郷に戻してあげたいという思いを持った総連及び民団の在日同胞達は、遺骨奉還推進委員会を組織した。
 2008年に遺骨の遺族を探す調査を行ったが、身元情報がほとんど残っていないため調査は難航した。
 遺骨と安置堂を守ってきた在日同胞は協議の末、遺骨を韓国に戻すことを決めた。2008年から返還に向けた取り組みを推進し、2010年3月10日、遺骨は韓国忠清南道天安市の墓地「国立望郷の丘」に奉納された。

<納骨堂、その後>
 安置堂は現在も同じ場所に建っている。
 安置していた遺骨を韓国に戻した後、堂内には何も奉納されていない。遺骨を韓国に戻した頃、清水市は、日本人無縁仏を奉納する現在の安置堂が老朽化していたことから、在日同胞に「朝鮮人納骨堂を日本人無縁仏を奉納するために使わせてほしい」と申し出た。
 総連清水支部は、民団清水支部と話し合って申し出を受けることにし、その上で「安置堂に設置された石碑3枚(備考参照)を歴史的な証しとして保存してほしい」と要望した。
 市側では石碑を取りはずして保存することを検討したが、技術的に困難であることがわかったため、日本人無縁仏の奉納には至らなかった。
 その後、日本人無縁仏奉納の話は進展しておらず奉納には至っていない。

※備考
現在の安置堂に設置されているハングルで記された石碑3枚はそれぞれ、
 @「朝鮮人遺骨安置堂」の石碑(安置堂に向かって中央。縦長のもの)
 A旧安置堂に設置されていたものを付け替えた石碑(同右側)
 B現在の安置堂が建造された際に設置された石碑(同左側)
である。

A及びBには次のとおり書かれている。
<Aの石碑>
 異域万里 他国で つらくかなしく犠牲となり無住孤魂となった あなたがたよ
 主人があり 祖国があるのを 遠くない将来にあなたがたをつれてくる その日まで
 安らかに ねむりあれ
 1965年9月5日
  清水地区朝鮮人有志一同

<Bの石碑>
 歳月の流れと共に朽ちた私達同胞の納骨堂を清水当局の御協力を得てここに新堂を建立し哀悼をこめてご遺骨を安置します。
 1993年3月31日
  在日本朝鮮人総聯合会清水支部、大韓民国居留民団清水支部

朝鮮人遺骨安置堂(静岡市清水区北矢部)
在日のあしあと(2)
 〜 在日朝鮮人帰国者が帰国を記念して植樹した「友情の森」 〜
 駿府城公園(静岡県静岡市葵区)の一角に「友情の森」と記された石碑がある。
 場所は、北御門橋(北門)から入ってすぐの右手にある林の中。公園内の歩道からは林の奥側になり、樹木に囲まれて見えにくい場所である。
 「友情の森」は、1960年に完成した。1959年末、ソビエト青年歓迎や朝鮮青年歓送の活動の中で、「この友情を永久に記念するために植樹をしよう」「1本の木ではなく無数の森として、青年の友情と団結を表そう」との声を受けて計画され、静岡市に用地交渉した結果、駿府公園(現・駿府城公園)内に約1.500坪の土地が提供されることになり完成に至った。
 その後、静岡市公園整備事業の影響を受けて一旦撤去されたが、1999年に再建運動が起こり、2003年3月に記念碑(石碑)が再建された。
 平和や国際交流の象徴としてつくられた「友情の森」は、在日朝鮮青年にとって、祖国に帰国する運動が盛んになっていく時期と重なる。また、建設に関わった在日朝鮮青年の中には、その後、朝鮮に帰国した者がかなりいる。
 以下、「友情の森」について紹介する。

<「友情の森」が造られるまで>
 「友情の森」の建設は、1960年、日本と在日朝鮮の青年達によって計画された。当時、青年達の間では平和や国際交流を求める運動が活発に行われていたという。
 その様なムードの中、静岡県内では、駿府公園の一角に所在していた「駿府会館」(1978年に取り壊されたため現在は残っていない)に若者達が集まり、「静岡のうたごえ祭典」というイベントを開催していたが、イベントに参加した若者達の中から「友情の森」建設の機運が高まった。
 そして同年4月に建設が着手され、同8月、スウェーデンの国際青年団体が静岡市を訪問した際に最初の1本が植樹された。
 同10月6日には記念碑の除幕式が行われた。「友情の森」と書かれた記念碑(石碑)の建設費用は、日本と在日朝鮮の青年達が有志で負担した。また、設置された石碑の両側には、建造に尽力した青年達によってヒマラヤスギ20本が植樹された。「友情の森」は、年月を経ながら生い繁っていった。

<「友情の森」が撤去された>
 1999年3月、「友情の森」は、静岡市の公園整備事業の一環として、成長していた樹木は切り倒され、石碑も撤去されてしまった。
 「友情の森」建設から関わった在日同胞は、当時のことを次のように語る。

 撤去されたことに気付いたのは、仕事の一線を退いて時間に余裕が出来た頃だった。当時、私は県内に残された我々在日同胞の足跡を残したいと考えて県内各地を回っていた。
 「友情の森」は、1998年11月に通りかかった時には以前と変わらない状態であったが、翌年の1999年3月に通りかかった時、根こそぎなくなっていたことに気付いた。建設当時の日本側関係者に会って状況を伝えた。
 当時の関係者が集まって、静岡市役所公園緑地課に事情を聴きに行ったところ、「撤去したのは1999年3月8日〜15日の間である」「市側は、『友情の森』の撤去について、当事の関係者に電話したが、番号が変わっていてつながらなかった」などが判明した。
 また、記念碑(石碑)は駿府会館跡地付近に放置された状態で見つかった。

<「友情の森」を再建>
 「友情の森」の建設に尽力した関係者達は、再建に向けて「駿府公園の友情の森を再建する会」を結成し、1999年7月、静岡市に対して「再建に関する要望書を提出した。
 その結果、市側は「友情の森」がもともとあった場所の近くに、記念碑(石碑)を設置する場所を提供することになった。それが現在の場所である。
 そして、2000年3月11日、「再建する会」は、「再建記念碑前のつどい」を開催した。

<記念碑(石碑)について>
 記念碑(石碑)は、現在、前述のとおり公園内の林地に設置されている。
 記念碑(石碑)には、再建する際に関係者によって、碑の裏面に「友情の森の由来」が記され、また「友情の森」が建立されていた位置が分かるように、1990年頃に駿府公園の上空から撮影された「航空写真」が取り付けられた。
 以下に記念碑(石碑)の裏面に記された「友情の森の由来」を紹介する。

 静岡県下の国際交流・平和、文化・芸術、農村、労働など、各分野の青年運動の広がりと高揚、連帯の象徴として、静岡駿府公園内に「友情の森」がつくられた。1960年8月静岡市を訪問したスウェーデンの国際青年団体代表によって最初の一本が植えられ、同年10月6日記念碑の除幕式を行った。
 以後、静岡市を訪れた海外の青年代表、朝鮮民主主義人民共和国に帰国する青年が記念の植樹を行ない、静岡市駿府会館で毎年開催した「静岡うたごえ祭典」に集まった青年たちが、県内各地から苗木を持ち寄り植えてきた。
 それから40年が経った。駿府公園の一角につくられたヒマラスギを中心にした「友情の森」は長い歳月とともに大きく育ち、記念碑『友情乃森』の周りは鬱蒼とした森になった。
 今般、駿府公園整備計画により、記念碑は当地に移転の止むなきに至った。
 ここにその由来を記し、21世紀への伝言とする。

2000年3月11日

「友情の森」記念碑(石碑)
在日のあしあと(3)
 〜 在日朝鮮人の帰国を記念した「五葉松」「石碑」 〜
<「五葉松」「石碑」の由来>
 清水区立有度図書館の敷地内には、樹齢約130年の「五葉松」と、それを植樹した由来である「朝鮮と日本の親善のために」が刻まれた「石碑」が設置されている。

 1959年12月、清水市(現・静岡市清水区)在住の在日朝鮮人達は、朝鮮民主主義人民共和国に帰国する際の記念として、帰国者と多くの在日朝鮮人により、旧清水市立図書館(現在の清水市立浜田公民館)の前庭に樹齢80年(当時)の「五葉松」を植樹し、その傍らには「日本と朝鮮の親善のために」と刻んだ「石碑」を設置した。
また、「五葉松」の周りには、サツキ、ツツジ、キンモクセイが植樹された。稲葉清水市長(当時)が出席して贈呈式が行われ、清水市に寄贈された。贈呈式の後、稲葉市長が帰国者を市役所に招いてレセプションを開き好意に報いた。

<移設された後、現在の場所に>
 その後、1990年台に入って当時の関係者が現状を調査をしたところ、当時の植樹した場所には「五葉松」「石碑」が見当たらず行方不明になっていた。
 関係者は、清水市に「五葉松」「石碑」の所在確認を依頼した。
その結果、「五葉松」は旧清水市立図書館の建て替えに伴って一旦「有度公民館」の敷地に移設された後、「有度公民館」も建て替えることになり、近くに所在する「清水市立有度第一小学校」の玄関前に再度移設されていたことが判った。また、「石碑」は、児童の安全を確保するため同校体育館脇の片隅に移設されていたことが判明した。これら移設については当事者が知らないまま行われ、「五葉松」と「石碑」は、離された状態で移設されることになってしまった。
 「五葉松」「石碑」に込めた当時の思いを大切にしたいと考えた関係者は、「有度第一小学校」に相談した。その際、「『五葉松』の近くに『石碑』を設置するのは児童の安全確保の観点から難しい」「樹齢120年である『五葉松』を剪定や害虫駆除をしながら保全することは困難である」など、同小学校側の事情を聞かされた。そのため、同小学校及び朝鮮総連静岡県本部の双方が、それぞれ「五葉松」「石碑」の移設を市に要請することにした。
 市は要請を了解し、2001年3月、現在の静岡市立清水中央図書館に移設された。

<由来板の設置は先送りに>
 現在の場所に移設後、関係者は「五葉松」「石碑」の意義を確実に保存したいという思いから、設置の由来を記した「由来板」を作りたいと清水市に申し出た。しかし、諸般の事情により「由来板」の設置は先送りすることになった。
 その後、設置の話は再開されることなく現在に至っている。
 最後に、2002年当時に関係者が「由来板」に記す文面として書き残した文面を紹介する。日本と朝鮮(北朝鮮)の関係が改善され、「五葉松」の傍らに、「由来板」が設置される日を静かに待ちたい。

「五葉松の由来:1959年12月、清水市在住の在日朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国への帰国記念として、前清水市立図書館前庭に樹齢80年の五葉松を中心に、さつき、つつじ、金木犀を植樹し『朝鮮と日本の親善のために』と刻んだ石碑を建て、清水市長出席のもと市への贈呈式を行った。
植樹後、市の諸般の事情により一時他へ移植された経緯もあったが、2001年3月に現在の地に移植し植栽して行くことにした。
当市においては、特に400年前、朝鮮より江戸時代に派遣された外交団・朝鮮通信使とゆかりの深い興津に清見寺があるとし、歴史的にも深い関係の両国の平和と友好親善を願い、ここにその由来を記し21世紀への伝言とする。
2002年10月設置」

「五葉松」「石碑」
在日のあしあと(4)
 〜 盛んに行われた在日朝鮮人の帰国記念植樹 〜
 静岡県内における在日朝鮮人の帰国記念植樹は、1960年前後、「友情の森」(現・駿府城公園)、「五葉松」(静岡市清水区内)のほか、県内各地において行われた。

 その後、1998年に関係者のひとりが実態調査を行った。各地で行われた記念植樹とその後について紹介する。

<沼津市>
 1960年7月22日、沼津市立公会堂(旧)の正面右側に、在日朝鮮人が市の承諾を得て帰国を記念するソテツが植樹され、その傍らには石碑が設置された。
 1998年、関係者が現状を確認したところ、ソテツと石碑がなくなっていることが判った。沼津市に問い合わせた結果、ソテツと石碑は1985年、沼津市立公会堂(旧)の取り壊しにともない、沼津市民文化センターの建物裏側、駐車場の脇に移設されていたことが判明した。ソテツと石碑は現在も移設された場所に現存されている。

<浜松市>
 1959年12月、浜松城の石垣の側に、キンモクセイ、ヤマモモなど数本が植樹され、傍らには石碑が設置された。1998年11月に行われた現地調査では、既に木はなくなっており、石碑のみが残されていることが判った。木がどうなったのかについて、総連関係者が浜松市に問い合わせたが、「分からない」との回答だった。
 現在、浜松市は浜松城公園整備事業を推進しており、石碑が同事業の影響により移設される可能性がある。

<富士市>
 当時、吉原市民会館の正面左側に植樹されたことを関係者が記憶していたが所在が分からなくなった。1998年、関係者は市議と共に富士市に調査を申し入れたが、「関係者不明のため判らない」との回答だった。

<富士宮市>
 1959年11月6日、富士宮市議、静岡県議が参加した植樹式典が行われた。同式典の際の記念写真が残っており、帰国記念に植樹された樹木と、その傍らに「富士宮市在住朝鮮人帰国者一同」の碑が写されている。1998年の実態調査では所在が分からなくなっていた。

<天竜市>
 佐久間ダムの建設工事に従事した朝鮮人労働者は帰国する際に記念の植樹を行った。
 関係者が1998年11月に実施した現地調査、及び関係者が佐久間町役場に依頼した調査では、植樹された場所や樹木は確認することができなかった。その後、佐久間ダム湖岸広場の近くに「記念碑」が設置されているとの情報がWebサイト記事(出かけよう!北遠へ−ふるさと散歩道)から得られたため、2013年5月、関係者は現地に赴いて「記念碑」を確認した(写真D)

写真@A:帰国記念植樹(沼津市)
   

写真B:石碑(浜松市)


写真C:植樹式典の際に記念撮影した写真(富士宮市)


写真D:記念碑(天竜市)

天竜市の「記念碑」(写真D)には、次のとおり記されていた。

 記念
 朝日両国民恒久平和友好親善の為に
 佐久間地区朝鮮人帰国者集団
 西暦一九五九年十一月十八日建立

 1960年前後に行われた在日朝鮮人帰国記念の植樹は、50余年を経た現在、当時と変わらないままの状態で残っているもはなく、移設されたり、所在が分からなくなってしまった。
当時、熱い思いで同胞の帰国を見送った在日朝鮮人の方々にとって、記念植樹がなくなっていくことは、後生に伝えるために残したい史跡がなくなっていくことであり、それは大変残念なことである。

 浜松城石垣の近くに残っている石碑には「朝日両国永久親善萬歳」と記されている。

 当時の帰国者が残した言葉を、現在から将来にわたり、残して行かなければならない。
在日のあしあと(5)
 〜 掛川市にある無縁供養塔 〜
 1979年、掛川市本郷にある共同墓地に無縁供養塔が建てられた。建てたのは日韓協会掛川支部である。共同墓地は小高いところにある。日当たりは良く、見通しの良い場所である。
 無縁供養塔の碑面には「異国の地に眠る御霊よ 日韓友好の縁となりて鎮まり給え」と記されている。碑は、韓国・朝鮮の方角を向いて建てられている。この無縁供養塔は、戦時中、工場建物現場で亡くなった朝鮮人労働者を慰霊するために建てられたものである。

 戦争末期、中島飛行場の地下工場が全国10数ヶ所で建設された。1945年春、中島飛行機浜松製作所(エンジン生産工場)は、激しくなった空襲から工場を守るため、掛川市の原谷・本郷・遊家地区に、疎開工場としての地下工場を建設することになった。地下工場の建設には、工事を請け負った清水組、古谷組によって2,000〜3,000人といわれる朝鮮人が動員され、壕の掘削や道路の拡張工事などに従事した。動員された朝鮮人は、現場近くにつくられた飯場(複数世帯の労働者家族が共同で生活する家屋)に集住したため、朝鮮人労働者の子弟が転入した原谷・桜木の国民学校では生徒数が倍増したといわれる。

 地下工場の建設工事は、岩質がもろいところで落盤事故が発生するなど、工事労働者に犠牲者をだした。戦争末期ということを考えれば、地下工場を建設するための掘削工事が危険な労働であることが想像できる。朝鮮人労働者は、その様な過酷な工事現場を任された。

 地下工場は、1945年7月中旬には一部の工場が稼働した。地下工場用トンネルは、同年8月までに30以上が掘削されたが、地下工場全体が稼働する前に戦争が終わった。

 8月15日、朝鮮人の飯場からは「万歳、万歳(マンセイ)」と歓喜の声があがったといわれる。

 工事後も現場周辺に残っていた朝鮮人労働者達は、同年12月、付近の街道脇の民家を事務所にして在日本朝鮮人連盟(朝連)の原谷支部を結成した。朝連は、朝鮮人の生活を守る活動を開始し、また、原谷国民学校を借りて朝鮮人の言語や文化を子供達に教育するための教室を開いた。しかし、GHQが1949年9月に朝連の解散を命じたため、原谷支部は解散を余儀なくされることとなった。

 中島飛行場の地下工場が建設された本郷や遊家地区には、現在も地下工場跡の横穴が数多く残っているほか、桜木地区には飯場を改造した家屋が残っている。

 中島飛行機地下工場跡は、戦後被害の跡であるとともに、朝鮮人が過酷な労働現場に従事していたことを現す跡である。同様の地下施設は、戦時中に全国で数100ヵ所つくられたといわれ、それぞれの建設現場では、多くの朝鮮人が使役されたといわれている。しかし、当時の資料が所在不明となったり、また建設跡地の破壊が進んだことから、当時の実態はほとんど明らかにならないまま、事実究明も困難になっている状況である。戦後70年近くを経た現在、この様な事実があったことを私達は知っておくべきである。

<参考>
 掛川市は1998年、市民団体からの要請を受けて、地下工場建設にかかわった朝鮮人労働者の実態に関する冊子「掛川市における戦時下の地下軍事工場の建設と朝鮮人の労働に関する調査報告書」(A4版、170頁)を刊行した。調査は1993年から開始され、当事者への聞き取り調査や現存する工場跡の調査結果などが行われた。詳細にまとめられており全国的にも貴重な資料である。冊子に紹介された「朝鮮人の家族持ちの人たちとは随分仲良く付き合い、帰国の折には大豆や小豆などの食料を持ち寄ってせんべつ代わりに贈った」(聞き取り調査より)。当時の韓国・朝鮮人と日本人の自然な交流がうかがわれる。

   
在日のあしあと(6)
 〜 日本海横断飛行を目指した朝鮮人女性パイロット・朴敬元 〜
 1933年8月7日午前10時35分、朝鮮人最初の女性パイロットである朴敬元は、東京飛行場(現在の羽田空港)を出発した。

 この日のフライトは、新京(当時の満州国内にあった都市。現・長春)までの日本海横断親善飛行となる「日満親善・皇軍慰問日満連絡飛行」が目的であった。この親善飛行に使用された機体は、フランスで設計された当時の新鋭機である「サルムソン2A2型」だった。機体の形状から通称「青燕(あおつばめ)」と呼ばれ、朴敬元の愛機であった。

 朴敬元は同日、日本海横断親善飛行最初の目的地である大阪飛行場を目指した途中、静岡県多賀村(現・熱海市)の玄岳西側(山頂より50メートル下側)に墜落した。翌8日、地元の消防団や青年団などが捜索したところ、墜落した現場からは「青燕」の残骸と、操縦席でハンドルを握った状態のまま亡くなっていた朴敬元が発見された。収容された遺体は、その日のうちに荼毘に付された。

 朴敬元は、1897年に現在の韓国の大邱に生まれた。彼女がパイロットを志すようになったきっかけは、釜山で偶然観覧することになった曲芸飛行だといわれる。1917年、彼女は横浜の工芸講習所で働きながら学ぶため来日した後、1926年には日本飛行学校立川分校に入学。翌1927年に三等飛行士の免許を取得した。その翌年の1928年には、女性として3人目となる二等飛行士の免許を取得した。

 朴敬元が日本海横断親善飛行に挑戦した当時、朝鮮半島は1910年の韓国併合によって日本に植民地化されていた。
満州への親善飛行は、日本の“国策キャンペーン”に協力するものであったが、祖国である朝鮮半島を経由する飛行は、彼女にとって長年の希望であり、飛行を成功させたかったはずである。

 朴敬元の1周忌となる1934年夏、墜落した現場には、多賀村内で働いていた朝鮮人4人によって慰霊碑が運びあげられ設置された。慰霊碑は1メートル以上もある自然石に「鳥人霊誌」と記したものであった。また、7周忌(1940年)には慰霊祭が行われた。

 1974年、日本婦人飛行協会は、韓国女性航空協会会長から、敬元の遭難現場を探してほしい旨の申し入れを受けた。熱海市の協力を得て、同協会のメンバーは、遭難現場を訪れたほか、熱海市内にある医王寺において行われた1年遅れの「40周年追悼法要」にも熱海市長とともに参列した。韓国側からは大きく感謝された。
 2002年8月、熱海市は、市内で開催された日韓首脳会談(2000年9月23日、森喜朗総理と金大中大統領)を記念して、熱海梅園に韓国庭園をつくった。庭園は、熱海市が都市公園整備事業として国からの補助を受け、1億9000万円かけて完成させたものであるが、庭園内には「朴飛行士記念碑」が建立され、除幕式には、朴敬元の母校である大邱の信明女子高校から同窓会長らが参加した。70周忌にあたる2003年4月には、熱海市において日韓の女性航空協会による交換会が開催された。一行は、韓国庭園や朴敬元慰霊碑などを訪問し、上多賀の人々に厚い信頼を表明した。

 朴敬元は、自らが操縦する飛行機によって祖国・朝鮮半島に到達することは出来なかった。しかし、彼女の墜死をきっかけとして、国境を越えた市民同士によって交流が行われた。彼女の念願は、海を越えた市民交流というかたちで、祖国まで到達した。

<参考>
 2005年、朴敬元を描いた映画「青燕」が韓国で上映された(日本では東京国際映画祭で公開された)。
在日のあしあと(7)
 〜 B29に「体当たり」攻撃した日本軍機 〜
 1944年6月、太平洋戦争において、日本に対するアメリカ軍B29爆撃機による本土空襲が開始された。同年11月からは、マリアナ諸島を基地とするB29の空爆が行われるようになり、本土への空爆はさらに激しさを増すことになった。

 1945年5月29日、B29編隊は、横浜市街地を爆撃するためマリアナ諸島を進発、日本の上空に飛来した。午前9時頃、静岡県榛原郡本川根町に空襲警報が発令され、B29編隊は爆音を立てながら本川根町の上空を通り過ぎていた。当時、B29編隊による空爆は主に都市部が標的とされていたが、マリアナ諸島から日本までは、富士山をめがけて飛行して来たため、本川根町の上空がB29編隊の「通り道」になっていた。

 その時、事件は起こった。

 午前10時頃、1機の日本軍機が現れると、B29編隊に向けて全速力で突撃を開始した。日本軍機は、編隊のうちの1機に体当たり攻撃を敢行、攻撃を受けたB29は空中分解して落下した。体当たり攻撃を敢行した日本軍機も落下していった。

 体当たり攻撃を敢行した日本軍機は、清洲飛行場(愛知県)を基地とする飛行第五戦隊所属の「屠龍」(とりゅう)であった。「屠龍」は午前8時頃、清洲飛行場を発進した。そして、哨戒中にB29の編隊を発見し、攻撃を敢行したのである。

 「屠龍」が榛原郡本川根町上空において体当たり攻撃を敢行したB29編隊は、その後、横浜市上空まで到達し、3,200トンの焼夷弾を投下し、市内の3分の1が壊滅した。

<「体当たり」攻撃した盧龍愚・旧日本軍少尉>
 B29に体当たりして戦死した搭乗員は、河田清治少尉(22歳)、土山茂夫兵長(20歳)であった。遺体は6月1日荼毘にふされ、翌2日には汽車で原隊に帰還した。

 河田清治少尉の本名は、盧龍愚(ノ・ヨンウ)。朝鮮半島の出身であり、日本人名は創氏改名によるものである。

 盧龍愚は京畿道出身であり、仁川商業学校を経て、京城法科専門学校に進学した。1943年7月、盧龍愚は、陸軍特別見習士官制度に志願した。同年10月、大刀洗陸軍飛行学校群山教育隊に入学し、1944年3月に卒業。その後、迎撃戦闘機「屠龍」の訓練を受け、1945年3月、清洲飛行場(愛知県)を基地とする飛行第五戦隊に配属された。そして、配属後2か月余りで前述の体当たり攻撃を敢行して戦死したのである。給与の一部を朝鮮半島の両親に送金する親孝行の青年だった。特攻作戦については、「飛行機の数が少ないのに、こんなばかな戦法があるか」と批判していたという。

 戦後65年以上が経過し、戦争の記憶は風化している。盧龍愚の様に、旧日本軍を志願して日本人と共に従軍し、戦争の犠牲になった朝鮮人の方々が存在したという事実を、 “あしあと ”として記憶しておかなければならない。その記憶は、日本と朝鮮半島という隣国同士が将来、わだかりのない共存共栄の関係を築く道のりにおいて、とりわけ日本人にとって、一助になるのではないかと思う。
在日のあしあと(8)
 〜 朝鮮王朝王陵の石像(三島市) 〜
 我が国は、1910年ころ年から1945年8月15日(日本帝国主義の降伏)までの36年間、朝鮮半島を統治下に置いていた。この期間中に、朝鮮の文化が日本に持ち出される事案が起きたという話が、全国各地に残されている。しかし、文化財が持ち出された経緯などの詳細が周知されていない。

 この問題に対する日本社会の関心は、高いとは言い難い状況にある。戦後70年経った現在、私たちは、この問題について関心と理解を深める必要がある。なぜならば、我が国が将来にわたって朝鮮半島などの周辺諸国と善隣友好関係をつくるために、この問題を理解しておくことが、相手方の立場に立って物事を考えるための一助になるからである。

 以下、静岡県内における朝鮮文化財の流出問題について記す。

<佐野美術館に展示されている石像について>
 佐野美術館(三島市)は、1966年に三島市出身の佐野隆一氏が設立した私立美術館である。場所はJR三島駅南口から徒歩約20分のところにある。美術館内には、仏像や刀剣、能面などの文化財が展示されているが、今回紹介する朝鮮石像は、館内展示物ではなく、美術館に隣接する庭園「隆泉苑」内に野外展示物として置かれている。

 庭園「隆泉苑」には、現在、朝鮮王朝時代の神道碑、華表、三重石塔、石灯籍、文人石像、武人石像などの石像物が合計16個、野外展示されている。なかでも文化財的価値が高いとされているのは「神道碑」であり、次のようなものである。

「朝鮮国王子楽善君神道碑」
 神道碑とは「墓前に設置された、墓主の功績を讃える文章が記された石碑」である。様々な形のものがあり、隆泉苑に野外展示されている神道碑は、亀の形をした台座の上に石柱が乗り、さらにその上に屋根型の構造石が乗っているものである。神道碑は、高さが約4メートルもある巨大な石像物である。
 なお、亀の形をした台座を使用する神道碑は、当時の朝鮮王朝(李王朝)では高位者向けに限定されていた。この神道碑の主である「楽善君」は、李王朝第16代王である「仁祖」(1623年〜1649年)の子である。「楽善君」は、聡明な人物であったにも開わらず日陰の人生を送ったと伝えられており、没後に「智」と「徳」が再評価されて神道碑が建立されたといわれている。

<なぜ野外展示されることになったのか?>
 日本が朝鮮半島を統治していた時代には、朝鮮王朝の王陵(権力者の墓)などの周辺に設置されていた石像物が、無差別に日本に持ち出されたといわれている。
 筆者が、佐野美術館に野外展示されている文人石像と武人石像について書籍やウェブ・サイトなどの文献を聞覧した過程では「石像が多摩川の河川敷に放置されていたため、高島屋美術部が収集・保管した。その後、佐野美術館が購入した」という記述を見つけたが、真偽は不明である。

 今年の春、ある在日の方が、朝鮮文化財が日本に流出した問題に関心を持ち、佐野美術館を訪ねた。入口で配られたパンフレットに朝鮮文化財のことが書かれていなかったため、居合わせた美術館職員に質問したが「私は詳しい事を知らないのでお答えのしようがない」の回答だった。在日の方は、この職員が問題を隠しているのではなく、本当に何も知らないのだという印象を受けたが、気持ちはすっきりしなかったという。

<まとめ>
 「日本には朝鮮民族の文化遺産が博物館や美術館に多く所蔵され、それ以外にも人に知られることなく埋没している文化財が少なくない。私たち在日朝鮮人は、そのような文化財を探し出し本来あるべき場所に戻す責務がある」(「朝鮮新報」記事引用)。
 日本が朝鮮半島を統治していた時代、朝鮮文化財が日本に持ち出された。この問題について、在日朝鮮人と日本人の間では、問題意識の高さが明らかに違っていることを、私たちは理解しなければならない。
 私たちは、在日の人達が日本社会にうったえる声に真摯な態度で耳を傾け、また、我が国が周辺諸国と善隣友好関係をつくっていくために、この問題をうやむやにせず、問題と真摯に向き合うことが大事である。まずは、存在している問題のことを多くの人々が理解することが、相手の立場に立って物事を考えるために必要である。

在日のあしあと(9)
 〜 韓国文化財(石像)を返還した静岡市清水区での話 〜
 静岡県静岡市清水区で1997年5月、朝鮮王国の王陵石像が韓国に返還された事例がある。
 この石像は、静岡市清水区(当時は清水市)内に所在する料亭「玉川楼」の中庭に設置されていた(注:建物は既に取り壊されているため現存していない)。文人石像とよばれるものであり、大きさは、台座から頭頂までの高さが約2メートル、重さ約4トンもある。戦後間もなく、当時の料亭主が ”知人から譲り受けた ”とされる。材質には御影石が使用されたものであった。
 その後、料亭主が息子の代にかわり、石像を故郷の韓国に帰してあげたいと希望するようになった。しかし、石像を韓国に移送するのは大変に労力が要ることであるめ実施できずにいたところ、料亭主がかつて所属していた清水青年年会議所が、1997年に行う仁川青年会議所との姉妹締結30周年記念として“石像を寄贈する ”事業を計画し、返還に協力してくれることになった。
 石像の返還をめぐり、関係者には様々な苦労があった。
 関係者が石像を返還する意義を確認するために静岡県立大学の金先生から意見を聞いた際には「偽物を返還することは失礼になるため、充分な調査が必要」と指摘された。指摘を受けて、関係者は高麗美術館(京都市北区)を訪ね、石像に詳しい研究者に持参した資料を見せながら意見を求めたところ「写真から見る限り、本物に間違いない」という評価を受けた。
 ところが、続いて関係者が「石像を韓国に返還する」と説明したところ、研究者の感想は「日では美術品として扱われていても、韓国では墓守として扱われたため、取扱いに困るのではないか」「清水で大切にされていたのならば、そのままにしておく方法もある」であった。これを聞いた関係者は、石像を返還すべきか、清水に残すべきか、迷ったという。
 さらに、仁川青年会議所から「韓国で通関する際に、石像が美術品として扱われて高額な関税がかかるため引き受けは困難」と、新たな問題が発生した。しかし関係者は諦めなかった。横浜韓国総領事館に嘆願したり、仁川青年会議所のOBを通して在韓国日本大使館に陳情するなど尽力した結果、関税がかかることなく石像を韓国に返還できることになった。
 石像は仁川市立博物館に返納され、同9年5月、「清水・仁川JC姉妹締結30周年式典」の際に被露された(参考文献:「静岡に文化の風を」の会発行「静岡コリア交流の歴史」)

在日のあしあと(10)
 〜 丹那トンネル建設工事で犠牲となった朝鮮半島出身者 〜
 戦時中、多くの朝鮮人労働者は「国家総動員法」に基づいて過酷な労働を強いられていた。当時の労働状況について、丹那トンネル建設工事を通して再認識することで、隣人である朝鮮民族が拭い去ることのできない気持ちや、友好関係をつくるために日本人として考えるための参考にしたい。

<難工事だったトンネル建設工事>
 丹那トンネルは、東海道本線の熱海駅−函南駅間(静岡県東部)を貫通している。全長7千804メートルであり、1934年(昭和9年)に開通した。

 丹那トンネルの建設工事は、難工事であったといわれている。
 工事は、1918年(大正7年)に着工され、7年後の1925年(大正14年)に完成する計画で始められたが、これが大幅に長期化し、完成したのは約16年後の1934年(昭和9年)であった。予算770万円(当時)であった総工費は、2千600万円(当時)に膨れ上がった。また、延べ250万人にものぼる労務者が投入され、さらには、事故によって67名(熱海口(東口)31名、函南口(西口)36名)が犠牲となった。これらの数字が、いかに難工事だったかを物語っている。

 丹那トンネルが完成するまで、東海道本線は、現在の御殿場線を経由するルートであった。国府津(神奈川県小田原市)から御殿場線を経由して箱根の北側を迂回し、御殿場を通過して沼津まで出ていたのである。この区間は、勾配が25/1000(水平距離1千mに対し25m上がる)であり、鉄道線路としては急勾配であった。

 この区間を改善するため、明治42(1909)年に新ルートをつくる調査が実施された。後に、この調査が不十分なものであったため難工事を引き起こしたと指摘されているが、調査の結果、小田原から熱海を通過し、伊豆半島の付け根をトンネルで横断し、三島に抜ける新ルートが計画された。

 丹那トンネルの掘削工事は、大正7(1918)年4月、東の熱海側から開始された。

 難工事となった原因はいくつかあった。第一の原因は「大量の湧水」であった。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜く方法がとられたが、その結果、水抜き坑はが本トンネルの2倍(約15km)に達したほか、排水量が6億.メートル(芦ノ湖貯水量の約3倍)にも上った。第二の原因は「温泉余土」であった。「温泉余土」は、安山岩質溶岩と集塊岩が、温泉の熱湯で粘土状に化学変化した緑色の地層である。トンネルを掘っていく時には堅い地質であるが、掘削後、空気中に触れると著しく膨張する特徴があり、その膨張力は異常なほど強く、鉄製の支保工を変形させてしまうことがあった。

 丹那トンネルの工事では、67名が死亡したが、特に大きな崩落事故が2回起きた。

 最初の事故は、大正10(1924)年4月、熱海側坑口から約300mの地点で起きた崩落事故であった。約30mにわたって崩落し、作業中の16名が土砂の生き埋めとなって死亡し、崩落地点よりも奥側で作業をしていた17名が閉じこめられた(事故から8日後、17名は幸運にも救出された)。
 二度目の事故は、大正13(1924)年2月10目、三島側坑口から約1,500mの地点で起きた崩壊事故であった。極めて地質の悪い断層であり、噴き出した土石が約10mにわたって支保工(掘削の際、岩盤が崩れないように支える仮設構造物)を押しつぶし坑道を塞いた。また、崩壊とともに湧水が大量に流出し、泥土層を約300m押し出して迂回坑の口を塞ぎ、奥で作業していた16人が閉じこめられて溺死した。

 多くの困難を抱えた丹那トンネル工事であったが、その後、セメント注入法(軟弱地盤や湧水帯を掘削する際に使用される工法)や圧搾空気掘削工法(高圧空気で湧水を押さえる工法)などの新工法が導入され、工期が大幅に遅れた末に工事完了まで至った。

<過酷な環境、労働争議>
 丹那トンネル工事が行われた当時の社会状況は、現在とは大きく異なっていたため、とりわけ労働事情に関する若干の説明が必要である。

 昭和初期、朝鮮国内では、日本による植民地支配が強化され、また、地主が農民から過酷に収奪する状況であったことから、多くの農民は困窮状態に陥り、その結果、日本の労働市場に安価な労働力として流入することとなった。統計によれば、在日朝鮮人の居留人口(全国)は、1931年(昭和6年)に約3万2千人だったが、1939年(昭和14年)には約96万1千人に増加した。

 静岡県内における在日朝鮮人の居留人口は、1931年(昭和6年)に4千749人だったが、1939年(昭和14年)には9千855人に増加した。また、この期間には、同一市町村で居住する日数が90日未満である在日朝鮮人が全体の1O〜20%であり、雇用が不安定な状況の中で労働現場を転々としていたことが窺える。

 在日朝鮮人の増加に伴って、日本人との対立や抗争事件が生じることとなったが、その多くは、泥棒や金銭問題、感情・言語の行き違いによるものであった。

 一方、在日朝鮮人労働者達は劣悪な労働条件の改善を求めて、組織化された労働争議を展開することとなった。静岡県東部では、1930年代に入って朝鮮人労働者の組織化が始まり、労働争議が活発化した。

 当時、丹那トンネルエ事は完成間近であったが、多くの朝鮮人労働者が失業状態に陥る中、社会大衆党熱海支部の援助を受けて「失業者同盟(失業同盟組合)」を組織した。「失業者同盟」は、朝鮮人失業者の雇用が差別されていた状況に対し、熱海町長(当時)や静岡県、建設会社などを相手に抗議・交渉を重ねて雇用の改善を求めた。その結果、仕事を得た朝鮮人労働者もいた。一方、この間には「失業者同盟」と右派系団体・国粋会の間で抗争事件が頻発し、双方の関係者が逮捕される事態が生じた。

 1933年、「失業者同盟」は「東豆労働組合」(組合長・崔南守)に改組して全国組織「全労統一全国会議」の傘下に入ると、全労一般使用人組合東京支部から韓徳銖(初代朝鮮総連中央議長)、盧在浩(元朝鮮人教育会会長)、朴鳳林らが「東豆労働組合」に参加し、県東部における労働争議を指導することになった。

 当時の丹那トンネル建設工事をめぐる労働争議は、次のような状況であった。

○1934年9月13日、盧在浩などで組織する争議団は、朝鮮人55名、日本人12名の待遇改善要求(労働時間2時間短縮、賃金の3割値上げ、月給を2回に分けて支給の3項目)を行ったが、賃上げ以外は拒否された。
○同年9月25日、罷業(ストライキ)が決定した。事業主側の解雇方針に対し、26〜27日就業する日本人労働者がデモ行進や作業妨害で抵抗した。
○同年9月28日、争議団は、官憲からの弾圧や幹部が検挙される状況の中、解雇者16名に対する涙金40円、将来工事終了後の解雇に手当金支給などの条件を引き出して妥結した。
○同年9月30日、盧在浩、朴鳳林、韓徳銖、李春心、韓守済など11名が暴力行為で逮捕し、送検された。

 当時の様子について、冊子「いわゆる騒擾(そうじょう)事件」(吉葉清一・宗すゞ共著)には、次のように説明されている(内容を抜粋)。

「(韓徳銖さんは)ふとしたきっかけで、戦前のいわゆる思想運動に入り、丹那トンネルの労働者の待遇改善を要求して、警察につかまり拷問され半身不随になったときの苦しみ、『下手をすれば死んでいた』という韓さんの思い出になると、私(吉葉氏)の記憶もはっきりしてくる。まったくひどい圧迫の時代だった。
 昭和8年9月18日のに一揃検挙があり、私(吉葉氏)は治安維持法違反で投獄された。出獄したのは同11年春だったが、私が居ない間に、事務所に解放新聞が送られてきていたそうで、そのことが理由で、韓徳銖、盧在浩の両君が捕まり、韓君は1年ほど拘留されていたという。送る方も不用意だが、警察も検事局も、弾圧のための弾圧をしていた」

 以上のように、「失業者同盟」、「東豆労働組合」は、朝鮮人労働者が置かれた劣悪な労働条件、不安定な雇用関係、低賃金、長時間労働などに対して、日朝双方の労働者を連帯させた共同闘争を展開しながら、改善要求を求めて闘った。

<殉職碑、朝鮮半島出身者の犠牲者>
 丹那トンネル工事完了後、犠牲者全67名の氏名を刻んだ殉職碑が、鉄道省によって熱海側の坑門の真上に建立された。

 慰霊碑はブロンズ製のものであり、刻字面を上向きにして水平に設置されている。また、慰霊碑と垂直に接して「殉職碑」と書かれたブロンズ製のプレートが設置されており、「殉職碑」の両側には、右側にノミで岩を削る工夫、左側に削岩機で岩を掘削する工夫が、それぞれ描かれている。

 慰霊碑に記された殉職者67人の氏名の中には、李春伊、李且鳳、金炳泰、明東善、李賢梓、孫壽日、金芳彦という朝鮮半島出身者と思われる氏名があり、犠牲者の約1割を占めている。

 丹那トンネル建設工事が行われた当時、世界的な経済不況下にあり、日本は朝鮮半島を植民地支配していた。丹那トンネル工事のうわさは朝鮮の町や村に広がり、貧困に苦しむ農民たちが工事労務者の募集に応じて流れてきた。その結果、静岡県内の朝鮮人居住者は、1919年には131人であったが、丹那トンネル着工10年目の1928年には5、639人、トンネルが完成した1934年には8、732人にまで増加した。同年の朝鮮人有職者3、709人のうち2、418人が土工であったとされ、多くの朝鮮人が丹那トンネル工事にも従事したことが想像できる。

 犠牲者67人の1割が朝鮮半島出身者で占めることを、多い少ないと議論するつもりはない。筆者が本稿で伝えたかったことは、丹那トンネル建設工事が、その後の日本経済発展において不可欠なもので、そのような日本の礎を築いた工事における犠牲者の中に、朝鮮半島出身者が確実に含まれていたということである。また、多くの朝鮮半島出身者が労働者として来日する中、雇用条件の改善を求めて企業側と闘った朝鮮人達の中から、終戦後、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の初代議長に就任した者など、在日朝鮮人の諸権利を守る運動に献身した者がいたことも、今日の日本で暮らす私たちにとって、理解しなければならない大事なことである。

丹那トンネル熱海口(東口)側に設置された銅板

丹那トンネル函南口(西口)側に設置された銅板

熱海口(東口)殉職者慰霊碑
 
機械掘り作業風景   丹那トンネル(西口)慰霊碑
   

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